第5章 愛着障害と向き合う

うつ病体験記

――「私は愛されてもいい存在なのだろうか」

「ちゃんと休めるようになってきた」と思えたとき、

ふと、自分の“心の土台”のようなものが揺れていることに気づきました。

どんなに回復が進んでも、なぜか自信が持てない。

そんな生きづらさの正体を、私はカウンセリングの中で初めて言葉にしていくことになります。


回復の過程で、私は初めて“自分の生きづらさ”の正体と向き合うことになりました。

病気の症状が少し落ち着いて、心に余白ができてきたころ、

カウンセリングの先生に「子どものころの話をしてみましょうか」と言われました。

正直、戸惑いました。

今のしんどさに向き合うだけで精一杯だったからです。

でも、話し始めて気づきました。

「私はずっと、“愛されたい”って叫んでたんだ」と。

幼い頃の私は、泣いても怒っても、感情を受け止めてもらえることがほとんどありませんでした。

両親は忙しく、立派に働いていました。

たしかに「愛されていなかった」わけではないと思います。

けれど「甘えることができなかった」記憶は、確かにそこにありました。

怒られないように、迷惑をかけないように、

いい子でいなきゃと、ずっと気を張っていたのです。

気づけば私は、大人になっても人の顔色ばかり気にして、

頼ることも甘えることもできずにいました。

「私なんかが頼っていいはずがない」

「わがままだと思われるんじゃないか」

そんな言葉が、無意識に頭の中を駆け巡っていたのです。

“愛着障害”――

その言葉を知ったとき、まるで自分のことが書いてあるように感じました。

「親との関係で安定した愛情を受け取れなかった人は、大人になって人間関係で生きづらさを抱えやすい」

そう説明されたとき、心の中の霧が少しずつ晴れていくような感覚がありました。

「私のせいじゃなかったんだ」

カウンセリングの中でそう言われた瞬間、

張りつめていたものが一気にほどけて、涙が止まりませんでした。

私は、誰かを責めたいわけではありません。

ただ、自分の中にある“傷”を、そのまま見つめて、

やっと「痛かった」と言えるようになったのです。

本音を言ってもいい。

頼ってもいい。

甘えてもいい。

そうして少しずつ、自分の中に“安心できる場所”を取り戻していきました。

今でも、「どうせ私は…」と考えてしまう癖はあります。

でも、「それは昔の自分がそう思わざるを得なかっただけ」と、

一歩引いて自分を見つめられるようになってきました。

“愛されたい”という気持ちが悪いわけではありません。

その気持ちは、本当はとても大切な心の声だったのです。

私はようやく、

「私は愛されていい存在だ」と、

少しずつ信じられるようになってきました。

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