――「私は愛されてもいい存在なのだろうか」
「ちゃんと休めるようになってきた」と思えたとき、
ふと、自分の“心の土台”のようなものが揺れていることに気づきました。
どんなに回復が進んでも、なぜか自信が持てない。
そんな生きづらさの正体を、私はカウンセリングの中で初めて言葉にしていくことになります。
回復の過程で、私は初めて“自分の生きづらさ”の正体と向き合うことになりました。
病気の症状が少し落ち着いて、心に余白ができてきたころ、
カウンセリングの先生に「子どものころの話をしてみましょうか」と言われました。
正直、戸惑いました。
今のしんどさに向き合うだけで精一杯だったからです。
でも、話し始めて気づきました。
「私はずっと、“愛されたい”って叫んでたんだ」と。
幼い頃の私は、泣いても怒っても、感情を受け止めてもらえることがほとんどありませんでした。
両親は忙しく、立派に働いていました。
たしかに「愛されていなかった」わけではないと思います。
けれど「甘えることができなかった」記憶は、確かにそこにありました。
怒られないように、迷惑をかけないように、
いい子でいなきゃと、ずっと気を張っていたのです。
気づけば私は、大人になっても人の顔色ばかり気にして、
頼ることも甘えることもできずにいました。
「私なんかが頼っていいはずがない」
「わがままだと思われるんじゃないか」
そんな言葉が、無意識に頭の中を駆け巡っていたのです。
“愛着障害”――
その言葉を知ったとき、まるで自分のことが書いてあるように感じました。
「親との関係で安定した愛情を受け取れなかった人は、大人になって人間関係で生きづらさを抱えやすい」
そう説明されたとき、心の中の霧が少しずつ晴れていくような感覚がありました。
「私のせいじゃなかったんだ」
カウンセリングの中でそう言われた瞬間、
張りつめていたものが一気にほどけて、涙が止まりませんでした。
私は、誰かを責めたいわけではありません。
ただ、自分の中にある“傷”を、そのまま見つめて、
やっと「痛かった」と言えるようになったのです。
本音を言ってもいい。
頼ってもいい。
甘えてもいい。
そうして少しずつ、自分の中に“安心できる場所”を取り戻していきました。
今でも、「どうせ私は…」と考えてしまう癖はあります。
でも、「それは昔の自分がそう思わざるを得なかっただけ」と、
一歩引いて自分を見つめられるようになってきました。
“愛されたい”という気持ちが悪いわけではありません。
その気持ちは、本当はとても大切な心の声だったのです。
私はようやく、
「私は愛されていい存在だ」と、
少しずつ信じられるようになってきました。